Cosmopolitan

“国際人”について。



珍しく機内で眠れなかったのを利用して
たっぷり時間をかけて考えてみた。

山田(2005)によると
英語には“国際人”に相当する語がない。
そのうえで、日本語の“国際人”は
「教養や語学力があって、世界に通用する人」(p.35)
という独自のイメージで使われていると指摘している。

うん、確かに。
私はこういう見栄えのいい意味のわからない語は
なるべく使わないようにしているが
日本人が“国際人”に好感を持っているのは知っている。
よくわからないまま定着して
いつのまにか曖昧な意味をまとってしまうのは
カタカナ語”に限ったことではないのだね。

山田は現行の国際理解教育を批判し
「XX人はこうで、YY人はこうだ」と教えるのではなく
世界のものごとを広く吸収し
自分自身の見方を育んでいくよう指導すべきだと述べている。
その視点から“国際人”と英語のcosmopolitanとを比較して
「異質の存在」と位置づけ
“国際人”を「コスモポリタンに昇格」すべき(p.54)
と主張している。

私は現行の教育はやり方がまずいだけで
ethnography(民俗誌学)的な知識
(「XX人はこうで、YY人はこうだ」)は
国際理解にとって重要だと思う。
違いを知らなければ自分なりの見解など生まれない。

そもそもcosmopolitanという考え方を
英語教育という文脈へ持ち込んでしまうと
“国際人”=英語というイメージと同じような
不思議な関係ができてしまいそうに思う。

さらに“コスモポリタン”なんてカタカナ語に
そんな大役は果たせないんじゃないかな。
現代日本人に“コスモポリタン”のイメージを聞いたら
アメリカ発のファッション誌とその影響から
「ちょっとオトナなガールズトーク」とかに
なっちゃってるかもよ?

せっかくいい日本語があるんだから
“国際人”でいいじゃない。
要は“国際人”を英語から切り離せばいいんでしょ?

私の周りで
国際人と呼べそうな人のことを考えてみる。
ふむ。
ざっくり言うと
“区別に無頓着で個々の違いに敏感な人”かな。
当然ながら英語をしゃべるかどうかは
まったく関係がない。

逆に“区別に過敏で
個々の違いより集団の性質を重視する人”もいる。
不満・劣等感・差別のあるところには
たいていそういう人がいる。
この人たちは
国や言語についても同じような見方をするから
たとえば日本人と英語でいうなら
白人のネイティブを盲目的に崇拝し
日本人や他のアジア人の英語を見下したがる。

私の考える国際人とは
ナニジンだろうと、ナニ語だろうと
「それはいいから」と普通に言える人のこと。
たとえば日本人と英語なら
「英語だとか日本語だとかは別として」
「英語がしゃべれるからどうだってことじゃなくて」と
言語の“区別”をさらっとかわせる人。

このスタンスは国や言語以外についても適用されるので
国際人は
性別・人種・階級・障害・年齢その他の“区別”を
「それはいいから」と脇へ置くことができるだろうと思う。
やっぱり英語は関係ないが
もっと正確に言えば国際人の基準とは
英語なんてちっぽけな枠には収まりきらない
人間性に関わるぜんぶのことなのだ。

そういえばかつて小学校英語教育について
こんな警告があった。
1972年のこと。

小学生に英語を教えたために、
英語を知らない他人を軽蔑したりするような
軽薄な人間を生んだ、と言われないように計画すること。
(江利川 2008 p.50)。

英語教育と国際人育成に関係があるとすれば
このあたりのことなんじゃないかな。

ちなみに…というか言うまでもないことだが
単なる無頓着では国際人にはなり得ない。
「なんとなく」「特になし」「どっちでも」では
個々の違いを見出すことができない。
差別はしなくていいけど区別もできないのでは困る。
他や自己への関心を養っていくことを疎かにしてはいけない。

ところでこのcosmopolitanという語を
斎藤秀三郎は「一視同仁の(人)」と訳したそうだ(山田 p.39)。
くー!この日本語訳はすごい。
しびれるね。



【参考文献】
江利川春雄 (2008)
『日本人は英語をどう学んできたか 英語教育の社会文化史』 研究社
山田雄一郎 (2005)
『英語教育はなぜ間違うのか』 筑摩書房
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by emi_blog | 2010-08-16 01:33 | 英語  

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