思考用言語

“思考をするときの言語”について考える。



「ナニ語で考えるか」に最も深く関与しているのは
Cognitive Linguistics(認知言語学)という分野だろう。
そこでいろんな研究がなされていて
研究者によってさまざまな見解があることはちょっと置いておく。
さらに私は第一言語の重要性を強く主張する立場なので
それによるBias(偏見)はアリアリ。

…ということを最初に断った上で
「ナニ語で考えるか」をぐだぐだと語ってみる。
複数言語を使える人のことを話題にするので
第一言語の介在、つまり「訳すか、訳さないか」を軸に話を進める。

第二言語習得において
「第一言語で組み立てた文を第二言語に訳して発し、
受け取った第二言語を第一言語に訳して理解する」というプロセスは
第二言語だけで文を組み立てられるようになると
だんだんなくなっていくとされている。
特に、第一言語をスタート地点として、目標言語に向かって進む
Interlanguage(中間言語)的な見方をすれば
第一言語を使う機会が少なくなればなるほど
学習者はゴールに近づいていることになる。

“なくなっていく”というのが適当かどうかはわからない。
慣れによって『訳す』という作業が早くなるということもある。
本人の意識としては「訳していない」ように感じられても
実は「超高速で訳している」可能性がある。
個人的には消滅というよりは省略、
つまり「不要なプロセスとして省かれる」というのが近いかなと思う。
自転車の練習で、最初は必要不可欠だった補助輪が
二輪で走れるようになるとかえって邪魔になる。
それと同じように、『訳す』という作業はあるところから要らなくなり
それ以降は邪魔にさえなる。
実際、第二言語に慣れると第一言語では表現できないことが増えてくる。
こうなると『訳す』という作業はひどく無駄な遠回りでしかない。

まとめると、こういうこと。

『訳す』という作業はとても面倒くさい。
最初はそれに頼るしか道がないので仕方なく訳すが
そこを過ぎたらなるべく訳すことからは逃れたい。
こうして、訳す必要がない段階および場面で訳す作業は省かれる。
訳すことでかえって効率が悪くなったり
訳しても解決しない問題が発生するようであれば
なおさら訳すことを避ける。

さらにしつこく念を押しておく。
「面倒なことは特別な事情がない限り省かれる」。
ものすごく当たり前のことだけど
ここ、ポイントですよ。

さて。

これを聞きかじった英語教育に熱心な誰かがこんなことを言い出す。
「日本語を英語に、英語を日本語に訳しているうちはまだまだ。」
「本当に英語が使える人は訳すなんてことは一切しない。」
「訳さないことは英語レベルが高い証。」
「だから英語を英語で考えられるようにならないと。」
「英語で考える=英語ペラペーラ=カッコいい。」

さらっと聞くと「そうかな」と思ってしまう。
で、うっかり英語屋産業の片棒を担ぎそうになってしまう。
英語耳』のときと同じだね。

ついこのあいだも日本で
「emiぐらいになると、もう英語を話すときは英語で考えてるんでしょう?」
と言われた。
で、まぁ予想どおり「スッゴ~イ」ってなことになった。
いやいや、待ちなさい。

頭の中と外の言語は揃えておいたほうが効率がいい。
だから英語を聞く・話す・読む・書くときに
英語で考えることはなんにもすごくない。
ある時期を過ぎたら日本語を介在させるのが
手間で無駄で面倒くさいとしか思えないようになるだけのこと。

ついでに言っておくと
日本語を介さないことは英語慣れの証明にはなっても
英語レベルの高さの証明にはならない。
英語がたいしてうまくなくても
寝言や鼻歌で英語をぽろりと出すぐらいのことはできちゃうからね。
むしろ複数言語を平等に持ち続けるほうが貴重なのだよ。

たとえば通訳のすごさは
共通言語を持たない二者の仲介をするという“特別な事情”のもと
2言語の間を往復する(=訳す)というとんでもない面倒を
あえてし続けることにある。
やってみればわかる。
通訳をしたときの脳の疲れっぷりはハンパじゃない。
英語だろうと日本語だろうと
1言語で済ませるなんて手抜きもいいとこなのだと思い知らされる。

…というようなことを伝えたくても
いったん「スゴイ」「カッコいい」という感想が挟まっちゃうと
残念ながら冷静に話を聞いてもらえない。
「とにかく英語はカッコいい」の神話にハマると
「日本語より英語が先に出ちゃう」だけでも十分カッコいいけど
「頭の中まで英語」なんて超カッコいい。
「思考するときはもっぱら英語」だったりしたらマジカッコよすぎ。

まぁカッコいいと思うならしょうがないし
その人と私は『思考』の定義が違うのだろうと思うが
思考用の言語が固定されていて、しかもそれが第二言語だなどということは
私の立場としては信じがたい。

『思考』の定義はいろいろあるが
私はプラトン的に『自己内の対話』という解釈をしている。
自己内の対話は自分ひとりだけで行う。
そこには共通言語を持たない二者をつなぐとかいう“特別な事情”はないので
遠慮なく1言語で行えばいい。
その1言語は常に同じ言語である必要はない。
もし思考する個人に使える言語が複数あれば
当然Matter(思考する対象)も言語的に多様化するので
Matterに応じていちばん適切な言語を選べばよい。

たとえば私の場合でいうなら
日本語で読んだ日本のニュースについて日本語で思考し
英語で行った議論の内容について英語で思考するのは
どちらもごく自然なことである。
そしてMatterによって言語が決まるという意味では
英語で読んだ論文から得た知識を基に
日本人の話す英語を分析して
日本語的コミュニケーションを浮き彫りにすべく思考するとき
頭の中でナニ語を使っているのかはっきりしないのも
無理のないことである。
言ってみれば英語と日本語の混合物みたいな1言語なんだろうね。

これらをもし日本語か英語のどちらかで全部やれと言われたら
できないことはないがかなり面倒くさいのでお断りする。
どうしてもとなれば第一言語の日本語を選択するが
よほどの“特別な事情”でもない限り、その命令には従えないな。

私は日本語と英語しか知らないのでこれくらいで済んでいるが
3つも4つも言語が使える人は大変だろうと思う。
これは想像でしかないが
多くの言語を使える人は各言語で思考の深さを調節している。
比較的不得意な言語で発生したMatterについては
その言語レベルに合うところでMatterの追求を止め
思考を浅いところで留めておく。
不得意な言語のMatterが深い思考を要するときは
“特別な事情”に該当するのでMatterを得意な言語に訳してから
本腰を入れて思考する。
そうでなければバランスが取れず分裂してしまうだろう。

要するに道具を先に選んじゃうと
思考が限定されちゃってまずいんじゃないの、ってこと。

雨が降ったら傘を差す。
晴れたら差さない。
新しいお気に入りの傘をどんなに使いたくても
晴れた日に傘を差しているのはやっぱりおかしいでしょう?
余計な荷物も増えるし、腕も疲れるじゃない?
そこで無駄にエネルギーを消費しちゃうと
本来到達すべき場所の手前で力尽きてしまわないかい?

まぁそれでもその“晴れた日の傘”こそがカッコいいと言うのなら
それはもう、どうしようもないのだけどね。
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by emi_blog | 2011-08-18 15:00 | 英語 | Comments(0)  

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