“本音”

“本音”について
極力ぼんやりと書いてみる。



本当に心からそう思うことを正直に吐露しても、
その告白が不正直とみなされ、
「“本音”を言って」と求められることがある。

『本音』とは、辞書によれば
①まことの音色(ねいろ)。
②本心から出たことば。たてまえを取り除いた本当の気持。
…ではあるのだが、ここで求められているのはそれではない。

もし辞書どおりの意味にとらわれて
「いま言ったのが『本音』だけどなぁ」と疑問に思いつつ、
説明が足りないのか、表現が不明確なのか、と言葉を注ぎ足し、
『本音』を洗いざらい吐いたところで、相手は満足しない。
「ううん、私が聞きたいのは“本音”」
「まだ隠していることがあるでしょう」
「自分に嘘をついてるんじゃない?」
など、さらなる“本音”を要求される。
『本音』を吐いた側は、話し損のような感じでどっと疲れ、
“本音”を求める側は求めていたものが得られず、不満を持つ。
お互いに消化の悪い思いをし、気まずい雰囲気になる。

この相手が求めている“本音”とは、つまり悪口のことである。
この人のマインドセットでは、人の良い行いや考えは
すべて建前という仮面によって
表面をコーティングしているだけの存在であり、本来の姿ではない。
仮面を剥がしたときに現れる“本音”は
もれなく悪意に満ち、人を恨み、妬み、他人の不幸を待ちわびていると
決め付けている。
だから、剥がしても剥がしても善意が出てくるとすれば、
それは仮面が分厚くて剥がし切れていないのであって、
そのまま剥がし続ければ、いつか必ず悪意に辿り着くと
信じて疑わないのである。

昨今はネットでもテレビでも
このタイプのマインドセットを促進する情報があふれている。
「人間は、実はこんなにも腹黒い」
「女性は、実はこんなにも計算高い」
「これらはすべて科学的根拠に基づく」
そういうカルト宗教のような悪徳商法のような情報が垂れ流され、
善や悪をよく考えたこともない純粋無垢な人たちが右往左往している。
「危ない危ない、知らずに騙されるところだった」とか言って
一時しのぎの安心を絶えず求めるようになっている。
それこそ、騙されることを恐れる心理のスキを突かれているのに。

私は性善説にしろ、性悪説にしろ、
人間を一括りにするような考え方を信じていない。
人にはそれぞれ個別の特徴があり、それは時と共に変化し続ける。
だからこそ、相手の、今日の、今の、この瞬間の状態を察知して
それに応じて最適なコミュニケーションがとれるよう、
日々スキルを磨いていく必要があるのだと思う。

さらに、私はある程度は騙されることも大事だと思っている。
本当はドロッドロの無慈悲な悪魔の化身のような人でも、
良心を持たない(参照)人でも、虚言癖(参照)だとしても、
何かの事情でその本性を隠して
私に“善”のようなものを見せてくれたなら、
少なくともその場では、自分の身の安全が保てる範囲で
積極的に騙されておけばいいと思う。
仮にそのせいでちょっと残念な目に遭っても
「騙されちゃったー」と言うのを聞いてくれる誰かがいて、
後々は笑い話になれば、それでいいと思う。

そうでなければ疑心暗鬼になるあまり、
せっかく『本音』を語ってくれている人を信用できず、
訳のわからない注文をつけて、うんざりされることになってしまうからね。


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by emi_blog | 2014-05-27 04:49 | その他  

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