美醜と英語学習
「英語が大好きだと、学習の妨げになる」
ってなことがあるんじゃなかろうか、なーんてね。
神経美学者のSemir Zeki は
長年、美と脳の関係について研究している(参照1 参照2)。
彼の主張によると、私たちの脳は美を感知したとき、
ある特定の領域が共通して活性化する、
そこから、その領域が活性化するということが
すなわち美の定義となり得る(参照)。
そして美を感じる際に活性化する領域と
愛を感じる際に活性化する領域は一致する、と。
美の出所が、絵画であれ、音楽であれ、詩や演劇であれ、
それらを認識する視覚や聴覚の領域とは別に、
「美しい」と感じたときに活性化する領域がある、ということ。
そしてその領域は「愛しい」と感じたときにも活性化する。
その領域とは、medial orbito-frontal cortex
(mOFC:内側眼窩前頭皮質)に属する部分。
個体差が大きく、情動(感情)や報酬(気持ち良さ)をつかさどり、
意思決定や期待に関わっているらしい(参照)。
ふむ。
だとすると、だよ。
英語が大好きで、英語の音や文字列をカッコいいと思い、
英語をペラペラしゃべる人に憧れを持つ人は、
英語に触れたとき、「美」や「愛」を感じている。
これにより、感情や気持ちよさをつかさどる領域が活性化され、
英語に触れることはますます楽しくうれしい体験になっていく。
「英語を勉強しよう」という意思決定や
「英語ができるようになったらあれができる」という期待につながる。
学習の動機となる。
しかし、いかんせん活性化しているのは
限りなく大脳辺縁系(limbic system)に近い部分。
つまり、英語に対して「美」や「愛」を感じる人は
本能的な反応をしているということだろう。
言語の学習という、論理的で複雑な作業とは相性が良くないはず。
この「美」や「愛」を感じる領域に個体差が大きいことについて
理由はさっぱりわからないが、そうだろうなとは思う。
私が以前から勝手に名づけている“感覚派”の学習者(参照)は
この領域が発達しているような気がする。
「美」や「愛」を感じて英語学習を始める人は意欲が高い。
目がハートで、ウキウキワクワク、盛り上がっている。
英語ができるようになったら叶うはずの夢がたくさんある。
しかし、その状態の学習者は文法や語彙の体系的な学習や
文章をじっくり読んだり聞いたり、論理的に組み立てたり、
深く思考したりすることができにくい。
恋してるんだもん。
“カタい”話はナシで、楽しいことがしたいんだもん。
それで、「なんとなく通じる」の域に留まることになる。
そこを脱却させようと、“カタい”話を持ちかけると、気持ちが冷める。
英語に対する恋が終わる。
「美」も「愛」も感じなくなる。
「英語、もーいいや」「なんか違った」「やめた」となる。
しばらく時間を置くとまた恋が再燃することもあるが、
いずれまた「もーいいや」となって、やめる。
さほど上達しないまま長期間実りのない学習を続けたり、
やったりやめたりを繰り返す。
「美」や「愛」とは無関係に英語を学習する人は
特に盛り上がることはないが、着実に学習を続けることができる。
「好きとか嫌いとかじゃなく、必要だから」などの理由で
静かに、落ち着いて、ときには自己満足的に学習を継続できる。
こういうタイプの人の脳では、
情動をつかさどる領域が激しく活性化していないので
その分、高度で複雑な作業に血流が回せる。
で、論理的思考や客観的な批判などができるようになる。
だとすると、「英語だいすき!!」な先生が
明るく楽しく、歌ったり踊ったりして教えてくれる英語を
感情の発達において重要な時期にある幼児や子どもに与えることは
英語に対しての「美」や「愛」を育むことにはなっても、
言語としてきちんと使える人を増やすことには
ならないんじゃないだろうか。
「やりたい!」「やる!」「ペラペラになる!」と意気込んで
楽しい範囲では何とかなるけどそれ以上には達せず、
「英語、もーいいや」「なんか違った」「やめた」を繰り返す、
結局なんなんだな学習者および挫折者を
増やすことになるんじゃないだろうか。
子どもレベルの英語は、大人が第二言語として英語を必要とする場で
役に立たないことの方が多い。
数うちゃ当たる作戦で裾野を広げるのも結構だし、
それはそれで別にいいけど、その程度のことのために
お金や時間や労力を大量に使うってのは、
なんというか、割が合わないんじゃないかしらねぇ。
そういえばZeki の実験では、画家や音楽家などを
被験者から外している。
専門家というのは、感情にまかせて
簡単に美醜の判断を下すなどということができないからだろう。
mOFCの活性化を見れば、その道のプロかアマかわかる、
という言い方もできるかもね。
その意味で、やっぱり英語に恋しているような人は
プロの域には達しにくいのではないだろうか。
私は特に日本のような環境では
第一言語が確立してから第二言語を載っけることを支持しているが、
ひょっとしたらそれは“脳的に正しい”(使い方注意)のかもね。
なーんてね。
【関連記事】
“感覚”と英語 (2014/7/28)
ビール用語 (2015/8/18)
ってなことがあるんじゃなかろうか、なーんてね。
神経美学者のSemir Zeki は
長年、美と脳の関係について研究している(参照1 参照2)。
彼の主張によると、私たちの脳は美を感知したとき、
ある特定の領域が共通して活性化する、
そこから、その領域が活性化するということが
すなわち美の定義となり得る(参照)。
そして美を感じる際に活性化する領域と
愛を感じる際に活性化する領域は一致する、と。
美の出所が、絵画であれ、音楽であれ、詩や演劇であれ、
それらを認識する視覚や聴覚の領域とは別に、
「美しい」と感じたときに活性化する領域がある、ということ。
そしてその領域は「愛しい」と感じたときにも活性化する。
その領域とは、medial orbito-frontal cortex
(mOFC:内側眼窩前頭皮質)に属する部分。
個体差が大きく、情動(感情)や報酬(気持ち良さ)をつかさどり、
意思決定や期待に関わっているらしい(参照)。
ふむ。
だとすると、だよ。
英語が大好きで、英語の音や文字列をカッコいいと思い、
英語をペラペラしゃべる人に憧れを持つ人は、
英語に触れたとき、「美」や「愛」を感じている。
これにより、感情や気持ちよさをつかさどる領域が活性化され、
英語に触れることはますます楽しくうれしい体験になっていく。
「英語を勉強しよう」という意思決定や
「英語ができるようになったらあれができる」という期待につながる。
学習の動機となる。
しかし、いかんせん活性化しているのは
限りなく大脳辺縁系(limbic system)に近い部分。
つまり、英語に対して「美」や「愛」を感じる人は
本能的な反応をしているということだろう。
言語の学習という、論理的で複雑な作業とは相性が良くないはず。
この「美」や「愛」を感じる領域に個体差が大きいことについて
理由はさっぱりわからないが、そうだろうなとは思う。
私が以前から勝手に名づけている“感覚派”の学習者(参照)は
この領域が発達しているような気がする。
「美」や「愛」を感じて英語学習を始める人は意欲が高い。
目がハートで、ウキウキワクワク、盛り上がっている。
英語ができるようになったら叶うはずの夢がたくさんある。
しかし、その状態の学習者は文法や語彙の体系的な学習や
文章をじっくり読んだり聞いたり、論理的に組み立てたり、
深く思考したりすることができにくい。
恋してるんだもん。
“カタい”話はナシで、楽しいことがしたいんだもん。
それで、「なんとなく通じる」の域に留まることになる。
そこを脱却させようと、“カタい”話を持ちかけると、気持ちが冷める。
英語に対する恋が終わる。
「美」も「愛」も感じなくなる。
「英語、もーいいや」「なんか違った」「やめた」となる。
しばらく時間を置くとまた恋が再燃することもあるが、
いずれまた「もーいいや」となって、やめる。
さほど上達しないまま長期間実りのない学習を続けたり、
やったりやめたりを繰り返す。
「美」や「愛」とは無関係に英語を学習する人は
特に盛り上がることはないが、着実に学習を続けることができる。
「好きとか嫌いとかじゃなく、必要だから」などの理由で
静かに、落ち着いて、ときには自己満足的に学習を継続できる。
こういうタイプの人の脳では、
情動をつかさどる領域が激しく活性化していないので
その分、高度で複雑な作業に血流が回せる。
で、論理的思考や客観的な批判などができるようになる。
だとすると、「英語だいすき!!」な先生が
明るく楽しく、歌ったり踊ったりして教えてくれる英語を
感情の発達において重要な時期にある幼児や子どもに与えることは
英語に対しての「美」や「愛」を育むことにはなっても、
言語としてきちんと使える人を増やすことには
ならないんじゃないだろうか。
「やりたい!」「やる!」「ペラペラになる!」と意気込んで
楽しい範囲では何とかなるけどそれ以上には達せず、
「英語、もーいいや」「なんか違った」「やめた」を繰り返す、
結局なんなんだな学習者および挫折者を
増やすことになるんじゃないだろうか。
子どもレベルの英語は、大人が第二言語として英語を必要とする場で
役に立たないことの方が多い。
数うちゃ当たる作戦で裾野を広げるのも結構だし、
それはそれで別にいいけど、その程度のことのために
お金や時間や労力を大量に使うってのは、
なんというか、割が合わないんじゃないかしらねぇ。
そういえばZeki の実験では、画家や音楽家などを
被験者から外している。
専門家というのは、感情にまかせて
簡単に美醜の判断を下すなどということができないからだろう。
mOFCの活性化を見れば、その道のプロかアマかわかる、
という言い方もできるかもね。
その意味で、やっぱり英語に恋しているような人は
プロの域には達しにくいのではないだろうか。
私は特に日本のような環境では
第一言語が確立してから第二言語を載っけることを支持しているが、
ひょっとしたらそれは“脳的に正しい”(使い方注意)のかもね。
なーんてね。
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“感覚”と英語 (2014/7/28)
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by emi_blog | 2015-10-08 09:12 | 教育 | Comments(0)