Criticality
日本文化と欧米流のCriticality は
合わないんじゃないかなぁ、について。
Dewey とかFreire とか、
久しぶりに教育の原理的なところのことを考えている。
データと格闘するという超末端な作業に追われているから
たぶんこれは現実逃避なのだろう。
Critical thinking やCriticality について
うまくまとめている論文を発見(参照)。
この仕上がりはDissertation の一部っぽいね。
このテーマで学部生を対象にケーススタディをしてるのかぁ(参照)。
うーむ。
ダブリンでは可能でも、トキオではどうでしょね。
日本にCriticality を推進しようとする動きが
ないわけではない(参照1 参照2)。
でもその動きは主に外国帰りの日本人が
「あっちでこんなの見つけました!」と高揚気味に伝えている程度で
まだまだ“舶来品”扱いであるように思う。
どうやって作るのか、日本で栽培できるのか、していいのか、
そのあたりの議論がすっぽり抜けていて
「珍しいでしょ。あっちで流行ってるんですよ。
これ、いいらしいですよ。うちもやりましょうよ」という勢いだけで
押し切ろうとしているように見える。
その「詳しくは知らないけど、あっちで流行ってたから
とりあえず持ってきました」ってのが全然Critical じゃないじゃん、
というツッコミがあってもいいと思う。
日本に欧米流のCriticality を輸入するのは簡単ではないと思う。
日本文化ファンとしては、あんまり好ましくないとも思う。
“国際競争力”という旗印のもと、やや破壊的にでもやるというなら、
まぁ仕方がないけど、個人的には残念だなと思う。
話をものすごーく単純化して身近な例を挙げてみよう。
私は日本人英語学習者がネイティブの話す英語を聞いて
「んんー、難しい」と言っている場面に出くわすことがある。
「早口でわからない」とか「レベルが高い」とか、
さらには「やっぱり自分の英語はダメだ」なんて言ってたりする。
で、一緒に聞いてみると、その実態は、
そもそもの英語がイマイチだったりする。
支離滅裂とまでは言わないが、話がとっ散らかっていたり、
行ったり来たりで話者本人が迷子になっていたり、
雰囲気と感覚で余計な表現を混ぜていたり。
で、「ネイティブといっても皆がみんな
教科書どおりの“正しい”英語を話すわけじゃないですからね。
時には言い間違いかな?勘違いじゃない?この表現どうよ?って
疑ってみるのも必要ですよ」みたいなことを言う。
その場では「なるほどー」となるけど、
多くの学習者はその態度を身につけようとはしない。
好みじゃないのだろう。
「でもねぇ、やっぱりネイティブだし」
「そういうことがあっても、やっぱりこちらの英語力が足りてれば
理解してあげられるんだろうし」
「だからやっぱり自分が頑張らなくちゃ」
というようなことになる。
そういうふうにして、日本の人たちはヨソの物事に対し、
自分たちが合わせるかたちで受け入れることをずっとしてきたし、
今もそうしているのだと思う。
そうやって中国、インド、イギリス、ドイツ、アメリカなど
その時々の“先輩”のやり方を基本的に無批判に取り入れることで
日本文化は成り立ってきているのだと思う。
だからこその空気読み。
だからこそのオモテナシ。
それはそれで、いいじゃないの。
外国でCriticality を知った人が、
「これ日本にない!ヤバイ!」と焦る気持ちはわかるけど
それ、なくても別に大丈夫じゃないかしらね。
日本には日本流のCriticality がすでにある、という見方も
できなくはないし。
日本文化では、ソトに対してNon-critical である一方で、
ウチに対しては非常にCritical である。
自分や身内をはじめ、同邦人や民族的に近い人たちなど、
少しでも“ウチ”の要素がある物事に対しては非常に緻密に、
厳しくあたり、教育的指導を施そうとし、内省を強く求める。
これを日本流のCriticality と呼んだらどうかしら。
この日本流のCriticality が現在の勢力を保っているうちは
欧米流の入る余地がない。
ってか、Criticality 2種類も要らないでしょ。
文化や製品や思想のうち、日本にうまく根付いたものは
この日本流Criticality との融合に成功しているように私には見える。
これを欧米流に変えるとなると、いろんな物事に影響が出る。
もちろん出身や居住国が日本でも、
欧米流のCriticality を備えている人はたくさんいる。
アメリカで出会う日本人の中には、もともと持っていたCriticality を
外国(主にヨーロッパ)でさらに磨いて
自己の思想を確立している人がいる。
逆に、欧米に長年住み欧米流の教育を受けても、英語ができても、
あいかわらずCriticality が身に付かない人もいる。
このあたりに関してはnurture よりnature の方が優勢なのかな。
日本に欧米流のCriticality を入れ込むのは難しい。
ましてそれを英語教育のついでになんて、無理無理。
この件について日本の英語教育にできることは、せいぜい
欧米流のCriticality を備えたタイプの日本人を早めに見つけ、
さらにその能力を発揮できるよう、訓練や実践に必要な道具として、
英語を持たせてやるぐらいのことでしょう。
以上、休憩終わり。
現実に戻ろう。
【関連記事】
Accusation-Biased Culture (2015/7/31)
忖度 (2015/5/11)
合わないんじゃないかなぁ、について。
Dewey とかFreire とか、
久しぶりに教育の原理的なところのことを考えている。
データと格闘するという超末端な作業に追われているから
たぶんこれは現実逃避なのだろう。
Critical thinking やCriticality について
うまくまとめている論文を発見(参照)。
この仕上がりはDissertation の一部っぽいね。
このテーマで学部生を対象にケーススタディをしてるのかぁ(参照)。
うーむ。
ダブリンでは可能でも、トキオではどうでしょね。
日本にCriticality を推進しようとする動きが
ないわけではない(参照1 参照2)。
でもその動きは主に外国帰りの日本人が
「あっちでこんなの見つけました!」と高揚気味に伝えている程度で
まだまだ“舶来品”扱いであるように思う。
どうやって作るのか、日本で栽培できるのか、していいのか、
そのあたりの議論がすっぽり抜けていて
「珍しいでしょ。あっちで流行ってるんですよ。
これ、いいらしいですよ。うちもやりましょうよ」という勢いだけで
押し切ろうとしているように見える。
その「詳しくは知らないけど、あっちで流行ってたから
とりあえず持ってきました」ってのが全然Critical じゃないじゃん、
というツッコミがあってもいいと思う。
日本に欧米流のCriticality を輸入するのは簡単ではないと思う。
日本文化ファンとしては、あんまり好ましくないとも思う。
“国際競争力”という旗印のもと、やや破壊的にでもやるというなら、
まぁ仕方がないけど、個人的には残念だなと思う。
話をものすごーく単純化して身近な例を挙げてみよう。
私は日本人英語学習者がネイティブの話す英語を聞いて
「んんー、難しい」と言っている場面に出くわすことがある。
「早口でわからない」とか「レベルが高い」とか、
さらには「やっぱり自分の英語はダメだ」なんて言ってたりする。
で、一緒に聞いてみると、その実態は、
そもそもの英語がイマイチだったりする。
支離滅裂とまでは言わないが、話がとっ散らかっていたり、
行ったり来たりで話者本人が迷子になっていたり、
雰囲気と感覚で余計な表現を混ぜていたり。
で、「ネイティブといっても皆がみんな
教科書どおりの“正しい”英語を話すわけじゃないですからね。
時には言い間違いかな?勘違いじゃない?この表現どうよ?って
疑ってみるのも必要ですよ」みたいなことを言う。
その場では「なるほどー」となるけど、
多くの学習者はその態度を身につけようとはしない。
好みじゃないのだろう。
「でもねぇ、やっぱりネイティブだし」
「そういうことがあっても、やっぱりこちらの英語力が足りてれば
理解してあげられるんだろうし」
「だからやっぱり自分が頑張らなくちゃ」
というようなことになる。
そういうふうにして、日本の人たちはヨソの物事に対し、
自分たちが合わせるかたちで受け入れることをずっとしてきたし、
今もそうしているのだと思う。
そうやって中国、インド、イギリス、ドイツ、アメリカなど
その時々の“先輩”のやり方を基本的に無批判に取り入れることで
日本文化は成り立ってきているのだと思う。
だからこその空気読み。
だからこそのオモテナシ。
それはそれで、いいじゃないの。
外国でCriticality を知った人が、
「これ日本にない!ヤバイ!」と焦る気持ちはわかるけど
それ、なくても別に大丈夫じゃないかしらね。
日本には日本流のCriticality がすでにある、という見方も
できなくはないし。
日本文化では、ソトに対してNon-critical である一方で、
ウチに対しては非常にCritical である。
自分や身内をはじめ、同邦人や民族的に近い人たちなど、
少しでも“ウチ”の要素がある物事に対しては非常に緻密に、
厳しくあたり、教育的指導を施そうとし、内省を強く求める。
これを日本流のCriticality と呼んだらどうかしら。
この日本流のCriticality が現在の勢力を保っているうちは
欧米流の入る余地がない。
ってか、Criticality 2種類も要らないでしょ。
文化や製品や思想のうち、日本にうまく根付いたものは
この日本流Criticality との融合に成功しているように私には見える。
これを欧米流に変えるとなると、いろんな物事に影響が出る。
もちろん出身や居住国が日本でも、
欧米流のCriticality を備えている人はたくさんいる。
アメリカで出会う日本人の中には、もともと持っていたCriticality を
外国(主にヨーロッパ)でさらに磨いて
自己の思想を確立している人がいる。
逆に、欧米に長年住み欧米流の教育を受けても、英語ができても、
あいかわらずCriticality が身に付かない人もいる。
このあたりに関してはnurture よりnature の方が優勢なのかな。
日本に欧米流のCriticality を入れ込むのは難しい。
ましてそれを英語教育のついでになんて、無理無理。
この件について日本の英語教育にできることは、せいぜい
欧米流のCriticality を備えたタイプの日本人を早めに見つけ、
さらにその能力を発揮できるよう、訓練や実践に必要な道具として、
英語を持たせてやるぐらいのことでしょう。
以上、休憩終わり。
現実に戻ろう。
【関連記事】
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忖度 (2015/5/11)
by emi_blog | 2015-10-10 08:17 | 文化 | Comments(0)