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学会

はじめてのがっかい。
(日本で参加するのは、ね。)



ひょんなことからこの週末に近所の大学で
言語科学会の国際学会があることを知り
参加してみることにした。

理系の人に聞くと、日本で行われる学会は
日本語で“日本流”だったりすることもあるらしい。
発表者がひとり滔々と話し、オーディエンスは不在に等しい、とかね。
そういうのを見るのもおもしろいかなと思っていた。

が、アメリカや他の国で出席した学会となんら変わらなかった。
強いて言えば出席者の9割以上が日本人なので
時間厳守だったり、QAやディスカッションが穏やかだったり、
セッションが終わってから個別に質問している人が多かったり、と
日本文化的な特徴が見られた、というぐらい。
国や言語そのものというよりは、
言語学系の学者・研究者に特有の色が濃く出ていたと思う。

この学会はSyntax(統語論)の研究が軸で、
そこに最近の傾向としてBrain Science(脳科学)や
Cognitive Psycology(認知心理学)を絡めて実験を行ったものが
発表の中心となっていた。
なので私の専門とはかなり遠かったのだが
まぁそれなりに楽しめた。

それにしても発表者および参加者の多くの方々の英語が
素晴らしく上手。
がんばってうまく話している…なんて人は少数で
ほとんどは、ラクに、ごく自然に高度な英語を話している。
やっぱり言語学の人たちは言語が得意なんだよなぁ。
得意な上に、日々切磋琢磨、自己鍛錬を怠っていない感じがした。

ただ、言語に長けている人たちは、ついその仕組みに興味が向き、
いわば言語学の奥へ奥へと進んでいってしまうため
必ずしも言語教育に有効な発見をするに至らない。
むしろ学習者をおいてけぼりにしているとさえ思う。

たとえばある“誤用”が観察されたとき
それがなぜ起きたかを言語の構造的に分析することも
脳のどこが誤作動を起こしたかを解明することも
科学の進歩のためには非常に有益だろうと思う。
しかし、仮にその原因を突き止めたところで
学習者の“誤用”を防ぐことができるとは限らない。
このように、言語学と言語教育では、その目的が大きく異なる。

さらに、たとえそれが“正しい”用法や発音ではないとしても
コミュニケーション上、非言語の信号や文脈などによって
その“誤り”がカバーされることはよくある。
相互理解を妨げないものまでを“誤用”として論うことに
どれほどの意味があるだろうか。
言語が個人の内面にもたらす作用を探求するのは
研究者にとっては非常におもしろいテーマであっても
学習者がより実質的に大事だと考え、求めているのは
彼らが学習した言語を誰と、どんな場面で、どのように使うかという
対人的、社会的な意味での習得や上達ではないかというのが私の立場だ。

今回の学会参加者はみんな英語がとても上手だったけれど
知っている人同士以外はほとんど言葉を交わしていなかった。
隣に座った人に挨拶するのでさえ珍しいようだった。
教育系や社会学系の学会では見られないことだと思う。

使わないものをピカピカに磨いて愛でる、という
収集家的な発想は、私にはないんだな。

by emi_blog | 2012-07-01 18:11 | 研究 | Comments(0)  

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